鎌倉幕府は、鶴岡八幡宮の東側、大倉の地に置かれ、ここは後に大倉(大蔵)幕府と呼ばれました。この大倉(大蔵)幕府の裏手の小高い山の平坦な場所にある源頼朝の墓とその周辺が法華堂跡とされています。
この記事の目次
法華堂跡とは
法華堂跡とは、鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の墓所とその周辺付近をいいます。その始まりは源頼朝の持仏堂で、1189年(文治5年)に聖観音を本尊として建てられました。
1199年(建久10年)1月13日に没した頼朝はここに葬られ、四十九日、百か日の仏事もここで行われました。翌年に行われた一周忌の際には、持仏堂は法華堂と呼ばれていました。
法華堂跡へ行ってみよう!
法華堂跡へは鎌倉駅から歩いても20分程度の距離で、鶴岡八幡宮に行った際にふらりと立ち寄るのも良いかもしれませんが、今回はバス停「岐れ道」からの道順をご案内します。
岐れ道バス停から北に向かって歩きます。暫く歩くと右側に清泉小学校が現れ、その角に大倉(大蔵)幕府跡の碑が立っています。
この清泉小学校の敷地を含む一帯は、源頼朝が幕府を置いたとされる大倉(大蔵)幕府跡です。この付近の地名は西御門(にしみかど)といいますが、幕府跡には東西南北に4つの門があったとされ、西御門や東御門(ひがしみかど)など、現在でも地名として残っています。
清泉小学校周辺の道路は桜並木となっていて、サクラが満開になると素晴らしい景観が楽しめます。
白旗神社から源頼朝の墓へ
大倉(大蔵)幕府跡の碑がある角からさらに先に進むと左手に児童公園(よりとも児童公園)が現れ、その隣には白旗神社があります。
白旗神社の祭神は源頼朝で、古くは頼朝を祭る法華堂があったとされます。江戸時代には鶴岡八幡宮(寺)の二十五坊(鶴岡八幡宮に仕えた僧侶の住まい)の一つである相承院(しょうしょういん)の供僧(ぐそう・神社に仕える僧侶)が管理しました。
その後神仏分離令により白旗神社を創建して頼朝を白旗大明神として改めて祭ったものです。
白旗神社前から階段を登ると、源頼朝の墓があります。
頼朝は、1199年(建久10年)に落馬事故が基で53歳で亡くなり、ここに葬られたと伝えられます。現在の墓は1779年(安永8年)に頼朝の子孫とされる島津重豪(しげひで)により整備されました。
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2021年11月下旬にここを訪れた時は、地元の方がちょうど階段の掃除をされているところでした。「頼朝さんが下で寝ているから囲いの中には入らないでくださいね。我々も花の交換と掃除以外では囲いの中には入らないので。」とおっしゃっていました。
頼朝の墓右奥に大江広元らの墓に続く道がありますが、トラロープで通行止めになっているため、いったん階段を降りて左に進みます。暫く歩くと左手に階段が現れるので、ここを登ります。
この階段の両脇にある石燈籠は、1858年(安政5年)に毛利家の家臣が献じたもので、大江広元、毛利末光の法名である「覚阿」「西阿」の文字がそれぞれ刻まれています。
北条義時法華堂跡と三浦一族の墓
階段を登り切ると平らなところに出ます。暫く進むと右側にロープで囲われたところがあります。ここは北条義時の法華堂跡(墳墓堂跡)とされる遺構で、2005年の発掘調査で判明した建物の範囲を杭とロープで表示しています。
北条義時ってどんな人?
鎌倉幕府第二代執権。源頼朝の正室である北条政子の弟であり北条時政の子。頼朝なき後鎌倉幕府の「十三人の合議制」に加わり、並み居るライバルたちを破り、姉政子と共に政治の実権を握る。承久の乱を鎮圧し後鳥羽上皇を流罪にし、幕府を安定させ「武家の古都鎌倉」を完成させた。1224年6月13日に死去し、「吾妻鏡」には「前奥州禅門(さきのおうしゅうぜんもん・義時のこと)を葬送す。故右大将(源頼朝)の法華堂の東の山上をもって墳墓となす」とある。
北条義時法華堂跡の後方には、三浦一族の墓とされるやぐらがあります。三浦泰村(やすむら)を始めとする三浦一族は、宝治(ほうじ)合戦に際し、法華堂にこもり総勢500名余り(一説には300名余り)が自害したといいます。
【宝治合戦(三浦氏の乱)とは】
1247年(宝治元年)、鎌倉幕府五代執権北条時頼と有力御家人である安達景盛(あだちかげもり)らが三浦一族を滅ぼした戦い。鎌倉幕府成立以来の有力御家人である三浦一族と、北条氏、安達氏との対立が深まり、安達氏が先制して西御門の三浦泰村邸に攻撃を仕掛けた。三浦氏側も応戦したが、泰村邸も炎に包まれ、一族は館を離れ法華堂に籠り、頼朝の絵象の前で往時を語りつつ、泰村以下総勢500名余りが自害した。
三浦一族の墓から階段を登ると3つのやぐらがあります。
3つのやぐらは右から島津忠久(しまづただひさ)の墓、大江広元(おおえのひろもと)の墓、毛利季光(もうりすえみつ)の墓とされています。
島津忠久は頼朝の子であり島津氏の祖とされています。大江広元は、頼朝の要請で京都から鎌倉に下向し頼朝の側近となりました。公文所(くもんじょ・鎌倉幕府の一般政務、財政を担当する機関。のちの政所(まんどころ))の別当(長官)となり、実務官僚として鎌倉幕府を支えました。毛利季光は大江広元の四男で、のちの毛利氏の祖となった人物とされています。
島津忠久の墓は頼朝の墓と同時期に島津重豪(しげひで)により整備されたもので、広元・季光の墓は毛利家が整備したものです。
階段を降りて島津家のいわれを記した石碑や毛利藩士村田清風の句碑などを見ながら進むと、やがて白旗神社に到着します。ここからは鶴岡八幡宮方面に進むか、あるいは荏柄天神社や覚園寺、瑞泉寺方面に足を伸ばすのもよいでしょう。
荏柄天神社近くに発酵食品を扱ったお店があります。店内にはコケのテラリウムも。興味のある方は下記リンクからどうぞ。
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鎌倉観光文化検定対策
鎌倉観光文化検定公式サイトに過去問の記載がある第11回(2017年度実施)以降の鎌倉観光文化検定(以下、「鎌倉検定」)2級および3級の出題の中から、法華堂および関連する項目について、出題状況や傾向を検討します。※問題文は一部改変している場合があります。
2020年度・2021年度の鎌倉検定は中止となっていますのでご留意ください。
傾向と対策
出題傾向としては、3級では吾妻鏡の記述から人名を問うもの、2級では長文穴埋め問題や誤った選択肢を選ぶ問題の正しい選択肢としての出題されているものがあります。
- 『吾妻鏡』に「前奥州禅門葬送す。故右大将家(源頼朝)法華堂の東の山上をもって墳墓となす」とあることから、法華堂東隣の山の中腹に墓所があるとされる「前奥州禅門」とはだれのことか。(第12回・3級)⇒正答:北条義時
- 誤っているものの組み合わせを問う問題で正答の組み合わせとしての出題(第11回・2級)⇒正答:大江広元-源頼朝墓の東側の山の中腹
- 5代執権〔 〕は宝治合戦で三浦泰村と一族を滅ぼし、北条執権政治を盤石にした。敗れた三浦泰村と一族は源頼朝の墓のある〔 〕跡あたりで自害した。(第12回・2級)⇒正答:北条時頼、法華堂
法華堂跡のまとめ
- 法華堂跡は、鎌倉駅から徒歩およそ20分、バス停「岐れ道」から徒歩およそ5分のところにある、源頼朝の墓とその周辺の旧跡
- 源頼朝のほか、北条義時や大江広元など、鎌倉幕府の中心人物の墓とされる史跡がある。
- 日本遺産「いざ、鎌倉~歴史と文化が描くモザイク画のまちへ~」の構成資産
いかがでしたでしょうか。法華堂跡の概要についてひととおりまとめました。2022年の大型テレビドラマで注目の北条義時ゆかりの地として訪ねるのも良いかもしれません。
交通アクセス
鎌倉駅から徒歩およそ20分
バス停岐れ道から徒歩およそ5分
連絡先 | 鎌倉市文化財課 0467-61-3857 |
鎌倉市観光協会公式サイト | 鎌倉市観光協会公式サイト |
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更新状況
- 2021年12月18日:記事掲載
参考文献
- 文化財オンライン
- 鎌倉観光文化検定公式テキスト
- 鎌倉観光文化検定公式サイト(鎌倉商工会議所)
- 深く歩く 鎌倉史跡散策 神谷道倫著 かまくら春秋社