妙法寺は鎌倉市大町にある日蓮宗のお寺。日蓮にちなんだ伝説やコケの名所として知られています。6月ともなれば、アジサイやハンゲショウも境内を彩ります。
この記事の目次
妙法寺とは
妙法寺は、鎌倉市大町にある日蓮宗のお寺。1253年(建長5年)、日蓮が鎌倉の松葉ヶ谷(まつばがやつ)を布教の拠点として草案を結んだところに建立されました。
中興の開山は後醍醐天皇の子である大塔宮護良(もりよし)親王の子、日叡(にちえい)とされています。
日叡は、日蓮を慕って1357年(延文2年)にこの地に堂塔伽藍を復興し、自らの幼名を山号とし、山頂に両親の墓を建てて弔いました。
妙法寺の山号の元となった日叡の幼名は「りょうごん丸」とのことですが、「りょう」の字は見たこともない字なので、上記の説明では割愛しました。
江戸時代には将軍家や徳川御三家、肥後細川家などの武家および市民の帰依を受けました。
妙法寺の総門、仁王門、法華堂が朱塗りなのは、将軍徳川家斉(いえなり)公を迎えるためであったとされ、明治時代中期までは境内に将軍御成(おなり)の間が置かれていたそうです。
松葉ヶ谷の法難
「立正安国論」を著し、北条時頼に上書した日蓮。ある夜松葉ヶ谷にある日蓮の草庵を、何千という念仏門徒が焼き討ちしました。
草庵では、日蓮が夕べの読経をしていたところ、1匹の白いサルが日蓮の袖を引き、裏山の洞窟へと導いてくれたおかげで、日蓮は命拾いをしました。
近くに山王権現の祠があり、「サルは山王様のお使いと聞いているが、今宵は自分を助けるためにサルをお使わしになった」と思ったとのことです。
日蓮は、過激な他宗批判や幕府批判で、他の宗派などから強い反発を受け、また、幕府から死刑を宣告されたものの、処刑の場で奇怪な現象がおこり、佐渡に流刑になったとの言い伝えがあります。
妙法寺境内を散策しよう
境内案内図:受付でいただいたチラシをスキャンしました。
総門から本堂へ
鎌倉駅から大町方面を目指して歩きます。安国論寺の前を左に曲がって妙法寺に近づくと、正面に総門が見えてきます。この総門は室町時代の建立で、鎌倉市の文化財に指定されています。
総門は普段は閉じられていてここから境内に入ることはできないので、階段を登って総門を見学したら、左にそれて受付で拝観料を払って境内に入ります。
本堂に続く道には鉢植えのスイレンやアジサイが置いてあり、私たちの目を楽しませてくれます。
本堂は江戸時代後期の文政年間に、肥後国熊本藩藩主であった細川斉樹(なりたつ)公が、幼くして亡くなった娘の菩提を弔うために建立しました。唐破風風の屋根の下の竜などの彫刻が印象的です。
受付でいただいたチラシには、幼くして亡くなった息女の名前が書いてありますが、見たこともない字なので、上記の説明では割愛しました。
本堂脇から仁王門へ
お参りを済ませたら、少し戻って本堂手前で右に進みます。
正面にある建物は大覚殿。建物内部には、中央に釈尊、左に妙法稲荷大明神、右にはかつて熊本城天守閣に祭られていた細川家寄進の加藤清正公を安置しています。
加藤清正:[1562〜1611]安土桃山時代の武将。尾張の人。幼名、虎。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳(しずがたけ)七本槍の一。肥後の半国を与えられて熊本城主となり、文禄の役・慶長の役で朝鮮に出兵。関ヶ原の戦いには東軍につき、肥後一国を与えられた。築城の名手で、熊本城の設計は有名。Webli辞書から引用
大覚殿の前を左に曲がると、白い斑(ふ)入りの葉があるハンゲショウが見えてきます。
ハンゲショウ(半夏生)は、夏至から11日目で7月2日ころを表す季節の言葉であり、植物ではドクダミ科の多年草を指します。
花穂の下の葉は下半分が白色となり、「半化粧」がその名前の起源という説もあるそうです。
ハンゲショウの群生を過ぎると正面に仁王門が見えてきます。6月にはアジサイの花が仁王門を彩ります。
仁王門の左側には、薩摩邸事件戦没者の墓があります。
1867年(慶応3年)12月25日、江戸の芝三田で起こった薩摩屋敷焼き討ち事件で戦死した、薩摩方、幕府方の人々の遺骨を納めたもので、明治維新直前の江戸を物語る貴重な史料となっています。
左手奥には化粧窟とよばれる小さな洞窟があります。内部には中央に石仏、その周りにはお稲荷さんの小さなキツネの像などの石塔群がありました。
妙法寺のコケの石段
妙法寺の石段は上から下までコケで覆われそれは見事です。4月から6月は新緑が特に美しく、見頃となります。
石段はコケの保護のため立入禁止となっているため、石段の右側脇にある細い階段を登ります。
細い階段を登り切ったところにには、水戸家寄進の法華堂があります。ここから左に進み、日叡お手植えと伝わるソテツの前を進むと、正面に鐘楼があります。
この鐘楼からさらに細い階段を登ります。
階段を登り切ったところにあるのは小庵跡で、かつて日蓮が庵を構え、鎌倉における布教伝道の拠点としたところと伝わります。
小庵跡前から右手に進みます。
大塔宮護良親王と日叡の墓所
階段を登ると、大塔宮護良親王の墓所となります。
日叡は、父である護良親王を慕い、この地に父の墓を建てて弔いました。大塔宮墓所からは、天気がよければ市内を一望することができます。
大塔宮墓所の見学を終えたら、来た道を歩いていくと、突き当りに石塔が見えてきます。
日叡の墓所を中央に、右手に日叡の母親の南の方の墓所、左手には日蓮をお祭りした石塔があります。
年中行事
主な年中行事を以下の表にまとめました。
新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から中止や延期の可能性もありますのでご注意ください。
5月5日 | 加藤清正公大祭 |
8月27日 | 松葉谷法難会 |
9月12日 | 日蓮上人瀧口法難会 |
鎌倉観光文化検定対策
鎌倉観光文化検定公式サイトに過去問の記載がある第11回(2017年度実施)以降の鎌倉観光文化検定(以下、「鎌倉検定」)2級および3級の出題の中から、妙法寺について、出題状況や傾向を検討します。
傾向と対策
出題傾向としては、法要の対象となる加藤清正や法要の行われる場所を問うもの、松葉ヶ谷の法難の伝説にまつわるものなどがあります。
- 法要の対象となる人物は誰か(第12回・2級、第13回・3級)⇒正答:加藤清正
- 妙法寺の名物の花は何か(第12回・2回)⇒正答:シャガ
- 加藤清正公の法要が行われる場所はどこか(第13回・2級)⇒正答:大覚殿
- 松葉ヶ谷の法難で、日蓮を洞窟に導いたとされる動物は何か(第12回:3級)⇒正答:白猿
また、鎌倉には「妙」と名の付く寺院が多く、妙法寺が、正答としてではなく選択肢の一つになっている問題が、第11回の3級の試験で出題されています。
その時の出題は、比企一族の邸宅跡で、比企能員(よしかず)の子、比企能本(よしもと)が開基となった寺院名を問うもので、選択肢と各寺院の主な特徴は以下のとおりです。
- 妙長寺⇒開山の日実は伊豆で日蓮を救った漁師の子(または本人)。法難御用船の模型、鱗供養塔、作家泉鏡花が滞在
- 妙隆寺⇒開山は日英。有力御家人千葉常胤(つねたね)の子孫、胤貞(たねさだ)別邸跡。「千葉屋敷」、「鍋かむり日親」、七福神の寿老人
- 妙法寺⇒当記事参照
- 妙本寺⇒この出題の正答、開山は日蓮、比企一族邸宅跡、比企一族供養塔、カイドウ、小林秀雄と中原中也
妙法寺のまとめ
- 妙法寺は、鎌倉市大町にある日蓮宗のお寺
- 松葉ヶ谷の法難の際、白いサルに助けられた伝説がある。
- コケの階段が美しく、鎌倉のコケ寺として知られる。
- 裏山には大塔宮護良親王の墓所があり、ここから市内を一望できる。
いかがでしたでしょうか。鎌倉のアジサイの名所といえば長谷寺や明月院が有名ですが、アジサイの最盛期にはどうしても混雑してしまいます。静かにアジサイを楽しみたいという方は、妙法寺を訪れるのもよいと思います。
交通アクセス
受付でいただいたチラシから引用↓
バス | 鎌倉駅 京浜急行バス(3番線)逗子駅行きまたは緑ヶ丘入り口行き 「名越」下車徒歩3分 |
徒歩 | 鎌倉駅徒歩15分 |
連絡先 | 鎌倉市大町4-7-4 TEL:0467-22-5813 |
公式サイト | なし |
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更新状況
- 2021年6月24日:記事掲載
参考文献
- 現地案内チラシ
- 鎌倉観光文化検定公式テキスト
- 鎌倉観光文化検定公式サイト(鎌倉商工会議所)
お断り
- 「松葉ヶ谷」の表記(チラシでは「松葉谷」)は、鎌倉検定公式テキストの表記によりました。また、「日蓮」についても公式テキストにしたがい「上人(聖人)」を付けていません(チラシでは「日蓮聖人」)。これに合わせて日叡についても「上人」は付けていません。
- 護良親王の読みについても、公式テキストにしたがい「もりよし」の表記にしています(チラシでは「もりなが」)
- なお、年中行事の表にある「松葉谷法難会」「日蓮上人瀧口法難会」については、年中行事の固有名詞ととらえ、チラシに記載の表記にしたがっています。