妙隆寺は、鎌倉駅東口から若宮大路を渡り小町大路を北に向かって歩くと左手に現れます。こじんまりとした寺院で観光客がたくさんいるというわけではありませんが、少ないながらも見どころのあるお寺です。
更新状況
- 2022年10月23日:「新劇の團十郎」丸山定夫の石碑を追加
- 2021年12月26日:記事掲載
この記事の目次
妙隆寺とは
千葉屋敷
妙隆寺は、鎌倉駅東口から徒歩およそ10分、鎌倉市小町にある日蓮宗の寺院です。山号は叡昌山(えいしょうざん)、開山は日英(にちえい)、1385年(至徳2年・元中2年)、鎌倉幕府の有力御家人である千葉常胤(つねたね)の子孫、千葉胤貞(たねさだ)が下総の中山(現千葉県市川市)法華経寺の日英を迎え、七堂伽藍を建立したと伝えられます。
妙隆寺は鎌倉幕府の有力御家人であった千葉氏の別邸跡に創建されたため、千葉屋敷とも呼ばれています。
千葉常胤(つねたね)とは
本尊は木造日蓮上人坐像で、ほかには、江戸時代初期のすぐれた彫像といわれる、開山の日英と第二世の日親(にっしん)坐像や、千葉胤貞の木像などが祭られています。
鍋かむり日親
第二世の日親(にっしん)は、日蓮の教えを継承し、法難にも屈することがなかった僧として知られています。21歳の時には百日間の荒行を試み、生爪をはがした血の水で墨をすって曼荼羅を描いたといわれています。
本堂向かって右側には、日親が修行したとされる日親上人行法御池之霊跡があります。
「大法行通に耐え得るや否や、自らの忍力を試さん」と、寒中、雪の日、氷張る早朝霜踏み、この池に身を浸すこと百日間、毎日自我偈(じがげ・法華経の一部)百巻、お題目千遍を日課として法華経を行通されました。現地案内板より転記(一部改変)
日親は、室町幕府第6代将軍足利義教(よしのり)に対し、「法華経」の教えを実践し他宗の信仰を捨て去るよう諭して退けられ、翌年には「立正治国論(りっしょうちこくろん)」を献じて再度改宗を試みたところ、事前に発覚して捕らえられました。
その際にはさまざまな拷問を受け、最後には灼熱した鉄鍋を被せられたものの屈しなかったことから、後に「鍋かむり日親」と呼ばれたといいます。
日親が修行した池の背後には小堂があり、日親の石像が安置されています。また、その隣には日親の墓とされる石塔が並んでいます。
鎌倉・江の島七福神 寿老人
本堂向かって右側にある小さなお堂には、鎌倉・江の島七福神のひとりである寿老人(じゅろうじん)が安置されています。
「新劇の團十郎」丸山定夫の石碑
本堂向かって右側の通路を進むと、右手に墓地があり、その入り口に、大正・昭和期の俳優、丸山定夫の石碑があります。
フランスの劇作家、モリエールの「守銭奴」の主人公、アルパゴンに扮した姿を現しているそうです。丸山定夫は新劇の発展に寄与し、「新劇の團十郎」ともいわれ、広島で被爆し、亡くなりました。
ご朱印
今回はご朱印はいただいていません。
鎌倉観光文化検定対策
鎌倉観光文化検定公式サイトに過去問の記載がある第11回(2017年度実施)以降の鎌倉観光文化検定(以下、「鎌倉検定」)2級および3級の出題の中から、妙隆寺について、出題状況や傾向を検討します。※問題文は一部改変している場合があります。
2020年度・2021年度の鎌倉検定は中止となっていますのでご留意ください。
傾向と対策
出題傾向としては、3級では鍋かむり日親に関する言い伝えが出題されています。
- 焼けた鍋をかぶせられても自説を曲げなかったことから「鍋かむり日親」と呼ばれた日親上人が第2代住職を務めた寺はどこか。。(第12回・3級)⇒妙隆寺
妙隆寺のまとめ
- 妙隆寺は、JR鎌倉駅から徒歩およそ10分のところにある日蓮宗の寺院
- 境内には鎌倉・江の島七福神のひとつ、寿老人を安置したお堂がある。
- 第二世日親は熱い鍋をかぶせられる拷問に耐えたことから鍋かむり日親と呼ばれる。
いかがでしたでしょうか。妙隆寺の概要についてひととおりまとめました。普段は静かでも新年には七福神巡りの参拝客でにぎわう妙隆寺にお出掛けされてはいかがでしょうか。
交通アクセス
JR鎌倉駅東口から徒歩およそ10分
連絡先 | 叡昌山妙隆寺 鎌倉市小町2-17-20 TEL:0467-23-3195 |
鎌倉市観光協会公式サイト | 鎌倉市観光協会公式サイト |
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参考文献
- 鎌倉観光文化検定公式テキスト
- 鎌倉観光文化検定公式サイト(鎌倉商工会議所)
- 深く歩く 鎌倉史跡散策 神谷道倫著 かまくら春秋社