鎌倉駅から小町大路を進んで材木座海岸に向かう住宅街には、比較的小規模ながらも由緒のある神社や寺院が点在しています。
ここでは材木座の寺院のひとつである来迎寺をご紹介します。
更新状況
- 2023年1月26 日:記事掲載
来迎寺とは
来迎寺は、鎌倉駅から小町大路を材木座海岸を目指して進み、水道路との交差点を超えた先の左手にある時宗の寺院です。
ここはもともと源頼朝が三浦大介(おおすけ)義明の菩提を弔うために1194年(建久5年)に建立した真言宗の寺院である能蔵寺(のうぞうじ)がありました。
その後開山の音阿(おんあ)が時宗に帰依したため改宗し随我山(ずいがざん)来迎寺となりました。
来迎寺は、鎌倉三十三観音の14番札所となっています。
来迎寺境内散策
バス通りから住宅街に入り写真の石柱のところを入ると、来迎寺の正面となります。
本堂は正面両側にある花頭窓が特徴です。本尊は三浦義明の守り本尊と伝えられる木造阿弥陀三尊像で、室町時代前期の作といわれています。このほかに「子育て観音」といわれる聖観音像が安置され、庶民の寺として親しまれています。
本堂向かって右側には、三浦大介(おおすけ)義明と、その孫である多々良三郎重春の墓と伝えられる五輪塔が並んでいます。
本堂に向かって右側を進み木戸を開けて本堂の裏手に進むと、多数の五輪塔が並んでいます。もともと三浦義明・多々良重春の五輪塔前にあったものを、本堂裏手に移設したもので、三浦一族の供養塔群のようです。
三浦大介義明と多々良三郎重春
三浦大介義明は、相模の国三浦荘を本拠として源頼朝の挙兵に呼応し、長子である三浦義澄(のちに「13人の宿老」となる)らを石橋山の戦いに派遣しようとしました。しかし、悪天候のために果たせず、帰りに畠山重忠の軍勢と由比ガ浜で遭遇しました。
畠山軍にいったんは勝利しましたが、衣笠城(現在の横須賀市)に戻った義明を畠山軍が再度攻め、ひとり城に留まった義明はここで最期を遂げました(享年89歳)。
源頼朝は義明の菩提を手厚く弔い、義明の17回忌を弔った際には義明の生前の功績に心から感謝を述べたといい、今日まで共に生きていたとみなすと述べたともいわれています。そのためのちに享年の89に17を足して「百六つ義明」といわれるようになりました。
多々良三郎重春は三浦大介義明の孫で、上記の由比ガ浜での戦いで命を落としたと伝わります。
ご朱印
今回はご朱印はいただいていません。
鎌倉観光文化検定対策
鎌倉観光文化検定公式サイトに過去問の記載がある第12回(2018年度実施)以降の鎌倉観光文化検定(以下、「鎌倉検定」)2級および3級の出題の中から、来迎寺について、出題状況や傾向を検討します。※問題文は一部改変している場合があります。
2020年度・2021年度の鎌倉検定は中止となっていますのでご留意ください。
傾向と対策
来迎寺に関する出題は少なく、いずれも基本的なものにとどまっていて難易度は高くありません。
- 材木座の来迎寺に墓がある武将はだれか。(第12回・3級)⇒正答:三浦義明
- 源頼朝が材木座の来迎寺の地にもともとあった能蔵寺を建立した理由はどれか。(第16回・3級)⇒正答:三浦大介義明の菩提を弔うため
寺院と人名について関連あることがらの組み合わせとして誤っているものを回答させる問題の選択肢として、来迎寺が出題されています。(第12回・2級)⇒来迎寺(材木座)-三浦大介義
来迎寺のまとめ
- 来迎寺は小町大路を材木座海岸方面に進み水道路との交差点を過ぎて左に入った住宅街にある小さな寺院
- 本堂向かって右側に相模の国三浦荘を本拠とした三浦大介義明の墓
- 本堂裏には三浦家家臣の五輪塔がありその傍らにはサルスベリの大木も
いかがでしたでしょうか。来迎寺の概要についてひととおりまとめましたが、もしも気になるようでしたらお出掛けされてはいかがでしょうか。
交通アクセス
鎌倉駅から徒歩およそ30分、JR鎌倉駅東口バス乗り場から九品寺循環で「五所神社」下車徒歩3分
連絡先 | 随我山来迎寺 | 鎌倉市材木座2-9-19 TEL:0467-22-4547 |
公式サイト | 鎌倉市観光協会公式サイト(来迎寺) |
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参考文献・関連サイト
- 鎌倉観光文化検定公式テキスト
- 鎌倉観光文化検定公式サイト(鎌倉商工会議所)
- 深く歩く 鎌倉史跡散策 神谷道倫著 かまくら春秋社